大谷嘉兵衛翁
ポートレート
お茶に関係するのであれば
あるいは横浜に関係するのであれば
大谷嘉兵衛翁は忘れてはならない存在でしょう。
翁は、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶應、明治、大正、昭和を経験されました。
(弘化は元年より、昭和は最初の1/8ほど)
この激変の時代に大谷翁が各局面でどのように考えられたかは国立国会図書館や
横浜開港資料館の資料で知ることができます。
そして翁の言葉と文章の多くは時代を超えた普遍性を持ちます。
特に心に留まるものとして
昭和6年(1931年)翁88歳の銅像除幕式(伊勢山皇大神宮)答辞があります。
以下、答辞全文。
本日は皆様が多数御集まり下さいまして私の為めに斯くも盛んな式を御挙げ下さいました事に就いては何と御礼を申し上げてよろしきやら其言葉を知りませぬので御座います。只今皆様は色々と私を御褒め下さいましたが、これはあまりに私を見過ぎていらっしゃった、私の仕合せは此上も ございませぬ、斯くの如き御精神を以て私を御褒め下さった事は私は終生忘れることは出来ませぬで御座います、私は只今の御話を承りながら泣いておりました位であります。私は今まで碌な事も致しませんし、又何時でも碌な事を言うことも出来ませぬので御座います。それでも御褒め下さったと云うことに付いては衷心より私は喜ばしく将来に向かって尚一層知恵を絞って行きたいと思いますが、もう先は短こう御座います。しかしもっと働いで見たいと云う精神だけは張込んで居ります、そして皆様のお褒め下さったお言葉に副うように致したいと存ずるのであります。皆様有りがとう御座いました。どうも失礼いたしました。
(「大谷嘉兵衛翁伝」498-499頁 句読点は原文のまま、旧字は現代漢字に置き換え、表示不能2文字略)
謙遜の次元を超えている言葉であり深い畏敬の念をいだきます。
翁の銅像は第2次大戦中に伊勢山から撤去されました。
それは幸いだったと思います。
1945年(昭和20年)5月の空襲で燃え上がる横浜市街を臨むまずに済みました。
もし翁の像がそこにあれば、瞼から止まることなく涙が流れていたと想像します。
なお、終戦直後に像無き台座に登った人によれば
戦後の焼け野原がずっと広がり本牧まで見渡せたそうです。
伊勢山の銅像
横浜市西区宮崎町 伊勢山皇大神宮に建立された銅像(大神燈の少し下、第2次大戦中撤去)
一方、2015年1月21日に伊勢山皇大神宮の大神燈の修復作業が完了、竣工奉告祭が行われました。
この大神燈は翁が関東大震災復興のあかしとして再建に尽力したものです。
名前は「照四海」で仏教用語の「光明照四海」に由来します。
(「大谷嘉兵衛翁伝」377-379頁)
2015年は再建の1927年(昭和2年)から88年目です。
修復を計画された方々の想いでしょうか?それとも偶然でしょうか?
そして、もし1月29日が竣工奉告祭でしたら、それは翁の生誕170年目の日でした。
台座プレートに刻まれた翁の229文字による関東大震災復興の言葉とともに
今回の改修により大神燈はこれから永く横浜を見守り続けるのでしょう。
伊勢山大神燈
昭和2年、伊勢山皇大神宮に再建された大神燈(照四海)
少し前、偶然にお祖父さんが大谷翁の碁仲間だったという方にお会いしました。
「日本には偉い大谷が3人いた。そのうちの一人だ。」と伝え聞いているとのことでした。
戸部別邸
戸部別邸 (あるときから鎌倉小町に移り別邸となったようです。)
大谷翁の戸部別邸の正確な位置は当時の地図で大体は判るのですが正確な場所は謎でした。
ようやく「横濱土地宝典」(大正4年版)で敷地の確認できました。
掃部山公園南部とその周辺約3000坪です。
建物は当時の写真からみて現在の横浜能楽堂あたりと推定します。
大谷嘉兵衛翁伝には戸部邸に300人のお客さんを招いたとあります。
それだけの建物は十分建てられる広さです。
「横濱土地宝典」では当時の横浜市全域の一筆毎の所有者がわかります。
大谷翁名義の土地は横浜の各所にありました。
そのひとつは神奈川県総合医療会館(中区富士見町)の隣接地でした。
総合医療会館は毎年出席する食品輸入事業者講習会場です。
あまり所縁の無かった富士見町ですが違って見えるようになりました。
昭和4年の横浜地図を見ると
神奈川区城郷町片倉に大谷農園と記された茶畑があります。
翁が作られた模範茶園(「大谷嘉兵衛翁伝」197-198頁)と場所が一致します。
ほとんど知られていないのですが
鎌倉鶴岡八幡宮の手水舎は関東大震災後に大谷嘉兵衛と渡辺福三郎が奉納したものです。
二人はとても近い関係でした。
平成の「鶴岡八幡宮手水舎保存工事報告書」の棟札写真にお二人の名前があります。
鶴岡八幡宮手水舎
鎌倉鶴岡八幡宮手水舎 平成27年5月28日撮影
昭和5年奉納(関東大震災で滅失したものを移転再建)、平成17年保存工事竣工
Ukersの「All About Tea」では翁がOtis A Poole氏と長きにわたり親交を持ったとあります。
Otis A Poole氏の息子さんのOtis M Poole氏は「古き横浜の壊滅」を記しています。
関東大震災時の横浜での体験を本にしたものです。
お父さん(Otis A Poole氏)については地震発生時は静岡の茶園にいたと書かれていました。
以下「古き横浜の壊滅」O.M.プール著 金井 圓 訳 111ページより。
「そして私の父オーティス・A・プールはどうしたろうか?彼は頑強な76歳の古参の茶業者であり、静岡の富士山麓の茶畑に行っていたのだが。」
また、Poole氏のお孫さんは第二次大戦後の日本である役割を担うことになります。
それは翁の信じるもののひとつに深く関係していました。御縁だと思います。
横浜本牧の天徳寺に大谷翁の大きな記念碑があります。
大谷翁が社長を務めた会社の方々が没年に建立しました。
歳月を経て周りの鎖は朽ち果てており、すぐ近くまで行けます。
土台には翁ゆかりの様々な土地の石が使われています。
特殊なリーディング能力が無くても暫し佇んでいると色々な想いが浮かびます。
碑から立ち去るときは誰に向かってでもなく「幸いあれ」と念じます。
引用文および写真(八幡宮手水舎を除く)出典
私蔵書「大谷嘉兵衛翁傳」(発行所 大谷嘉兵衛翁頒徳會 発行 昭和6年11月25日)

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